高1の息子と話をした

学校の宿題で映画を見て感想文を書くものがあった。息子が見たい「万引き家族」は、昨日の夜が最終上映だったので見に行かせた。帰宅後、皆で夕食をとりながら、妻は息子に何をしていたか尋ねた。

万引き家族」を見た、とこたえると、幼いころ万引きをして迷惑をかけたことを引き合いに出し、万引きを正当化するような映画を見てどうする、自分のしてきたことがわかっているのか、などと話を持ち出し、息子は切れて食事も取らずに自室に籠ってしまった。

 

翌朝、朝7時に妻が息子を起こした際、洗濯物がそのままであることに憤慨した。息子は感情のコントロールが効かなくなり、怒りをあらわにしている。

 

昨日に続いて息子に話をした。アドラーを学んだおかげか、気兼ねなく話ができる。

怒らない、話をしよう、と入った。

話し出すと、イライラが抑えられないらしく、歯を食いしばり貧乏ゆすりをはじめる。何にイライラしているか、言葉にださせようとしても、表現できない。私には息子が怯えているように見えた。去年の夏に二人で岡山に行ったことを話した。あの時は楽しかったか?と聞くと首を縦に振った。イライラが収まった。お父さんと話をするのに何が嫌なのか教えてほしい、と伝えた。「お父さんもそうだったけど、と言いながら自分の体験を話すのが嫌。」と口を開いた。正直驚いた。自分と同じ境遇を歩まざるを得ない息子に大きなヒントになるであろう事柄を伝えることを、私自身かなり勇気をもって意識してやっていたのに、息子はそれを苦痛と感じていた。「自分とは関係ないと思う。人に言われたことはやりたくない。」と、若者らしい答えだった。

 

そこで、言い方を変えた。アドラーの話で教育の究極の目標は「自立・社会への適合」だが、こういう話は嫌か? と尋ねたら、「そうなんだ、という感じ」と受け入れる感覚があった。そこで「自立」をテーマに話をした。

・自立のためには自分の課題は自分で解決することが必要

・しかし一人の力で解決できない課題もある。

・そのときは協力を求める。

・協力をされた相手は義務ではなくて善意でこれに対応する。

ことは伝わったようなので、洗濯物を出すこと、宿題をやること、といった日常の事柄がこれに該当する。課題を解決するには困難と忍耐が伴うが、人間である限りやらねばならないと伝えた。

また、「社会への適合」では

・人間は他の動物と違い、一人では決して生きていけない。

・自分の課題を自分で解決することが前提。だから、社会に対してはまず自分が迷惑をかけない、というところからスタートする。

・家族も学校も社会の一要素、今は社会の中で生きていくためのトレーニングだ。

・母に迷惑をかけない、ところからやってみよう。帰ってきたら2分の手間を惜しまず、洗濯物や弁当箱をしまおう。

そして、

・母が切れるのは、自分の課題を無言で人に押し付けるから、逆の立場だったら同じ気持ちになるはず。朝、母がイライラするのがいやなら、その原因を作らないことだ。

・だけどお前は物忘れしやすいという特性を持っている。帰るとそうするということを忘れる。だから、紙に書いて貼っておくようにして思い出す工夫が必要。思い出せばできる。

・その紙を私が以前に作って勝手に貼ったのは時期尚早だった。理由がわかり、自分の課題として自分で工夫すればよい。

・自分の特性を受け容れるのはたやすいことではない。ましてや、ネガティブなことからは避けたいのが心情。しかし、受け入れることにより、自分を守ることができる。

ある程度冷静に話を聞き入れたようだ。

 

今までこういった接し方が足りなかったのかもしれない、また、一朝一夕ではいかない。引き続き「優しくきっぱりと」、粘り強く話をしていこう。

 

ところで、自分に立ち返ってみる。

親らしいことをした一方、この間に、自分の内面が充実していたかと言うと、そうではない。心のどこかに面倒だ、みたいな気持ちがあったのも事実。自分の子供という、最も大事な人に接したときの印象として、いかがなものか? これが一生私につきまとう感情か? ではいったい何に対してなら、充実するのだろうか? 心から取り組めるのだろうか? 人に褒められることだけが良いという価値観で生きてしまった私自身もトンネルの中でもがき続けている。