自戒①

今朝も妻の罵声で目が覚めた。いつもはADHDの傾向を持つ息子への罵声だが、今日は息子が部活の合宿に行っていない。しかし怒っている。「こんなところに引っ越してきてもう10年、毎日死にたい、死にたいのはこっちだ。何が人の足を引っ張るなだ、引っ張っているのはお前だろ。」などと大声でわめき散らす。私への怒りが毎朝爆発しているのだ。 わかっているが認めたくない現実。

10年前、我が家は引っ越しをした。妻にとっては憧れの都会生活、私にとっては息苦しい社宅生活、赤ん坊だった子供が小学校入学まで育った環境、から離れた。上の子が小1、下の子が年長、管理職になって目途が立った、これからは家族との時間も大事にできる、などと根拠なく思っていた。宮仕えゆえ、贅沢はできない。幼稚園に車で何とか通える場所に新居を得た。ところが、何かに追われ、日々監視されている気持ちになっていた。子育てする環境としては、ハイソな環境を経験した後にとっては過酷だった。妻は相談相手を失い孤立した。

私は、管理職になり仕事量もさることながら、責任のろ板挟みという重圧に打ちのめされていた。自分が一生懸命やれば報われた頃とは違う。どうにもならない事に対しても結果を問われる。周囲の目が気になる。自分の能力を低く見られることにひどく怯えるようになった。研究部門に移ってからはさらにひどくなった。5年で計3回、うつの症状が出た。やせ細る、不眠、不安。誰にも言えなかった。自分の評価のために懸命に耐えた。それが家族に対する責任だとも思っていた。

その後志願して間接部門に異動した。嘘のように症状が消えた。追われることがなくなった。自分の世界はここだとばかりに懸命に成果を求めた。そのおかげで2年も経たず、次の異動に白羽の矢が立った。トップを走る人が行く大きな現場の長だった。しかし、赴任する前から症状がぶり返した。今度は今までの症状に加えて、記憶の低下が起きた。特にメモリーが弱った。部下と面談をするのに、聞く内容が頭に入らない。聞いた内容を紙に起こせない。手帳をなくしてしまったのがとどめだった(後で机の下から出てきた)。上長に頭を下げた。半年たたず任を解かれた。

転落した。働き盛りでの子会社への出向、周囲は定年後のOBばかり。暇をもてあます日々。惨めだ。誰にも会いたくない。うんと時間ができたのに、家族はすでに私を相手にしていなかった。孤立した。おそらくこの時ずっと軽いうつ状態が続いていたのだろう。何に対しても全く意欲がわかない。この頃から、自分に気づき始めた。社交不安障害、発達障害自閉症、さまざまな病名が浮かんだ。単に内気な性格ではない、何かがある。そう考えると合点がいった。両親がそうだった。人づきあいがダメ。父は大卒後、大手企業に馴染めず、町工場を起業した。浮き沈みでストレスを抱え、40歳で胃を4分の3切除、夜中起きだしては酒を飲み、独り言をつぶやく。週に1回は鍼灸師の施術を受けていた。母はヒステリックに私のできないところを指摘した。

中学受験に失敗、公立中では財布から金を盗みゲーム三昧。高校はそこそこのところに行ったが、勉強せず出席日数もギリギリ、成績は当然最低、何とか卒業はした。当然浪人生活、地方の有名国立大に入った。家を出たい一心で猛勉強した。大学生活はほぼ遊んでしまった。それでも自分は学者になれるかもしれないと思い、大学院へ行った。甘かった。甘いのに気づいてよかったのかもしれない。修士を得て就職した。時期がよく、その後の就職氷河期と言われる頃に比べると門戸はまだ広かったように感じる。これまでの生き方を芯から反省し、人が変わったように仕事と勉強に励んだ。その分、周りが見えなかった。その余裕がなかった。結婚して子供ができて、会社人生も順調に行って、その分、さらに余裕がなくなった。上っ面だけで生きてきたボロが出始めた。気づけば当時の父と同じような境遇に陥っている。

今となってはもはや手遅れなのだろうか。一度転げ始めたらもう終わりなのだろうか。生い立ちの悪さ、積み上げのなさが、ここにきて自分を追い詰めている。いつまでたっても出口の見えないトンネルの中を進んでいる。いつの間にか、後輩に追い越されている。今まで何だったのか、生きること自体が辛い日々を過ごしている。