ADHDとイップス

忙しさにかまけて、主治医を訪ねるのが2カ月以上あいてしまった。秋は地雷のように以前の辛かったことを思い出す。
頭が空白になると、そのことばかり考えてしまう。
ただ、大分整理できてきたような気がする。
私には遺伝的にADHDがあるようだ。自営業で精神的に辛い状況で、胃を切除したり、鍼灸を受けたり、夜になると酒を飲み眠れず、友人もほとんどいなかった父。ヒステリックに怒鳴ることの多かった母。

生きづらさは小学生のうちからあった。受かりっこない受験を失敗。塾に行っている自分に満足していた。高校の時に酷くなった。授業に出ない、頭も良くないくせに予備校通いで満足。親への感謝の気持ちなどさらさらない。勝手に地方の大学に行き、勝手に大学院に進学、勝手に就職した。それで満足していた。就職して何かを勘違いした。できる自分を演じた。社交性の高い、意欲の高い、仕事のできる自分を演じた。そのうち自分てすごい人だと自分で思った。

がむしゃらに働いた。管理職に無事登用。さあこれから、というときに鬱になった。崩壊した秩序の職場を規律ある職場にするのがミッション。課題を見つけるまでは順調に行った。行動に移そうとしたとき、一気に反発があった。今思えば、ADHDの症状が出ていた。うまくいかないことに衝動的に切れる、解決法のわからない問題に焦燥する、ダメな自分を出せずスキを見せられない。人間関係は元々苦手で覚えられない。話が続かない。行き詰まり鬱が合併したのだろう。

以来、支社の課長時代も鬱を併発しながら仕事を続けた。手を挙げて研究所へ。自惚れがあった。環境のせいか仕事のせいか、極めて順調。将来を認められて現場長のポストに。しかし、内示を受けてから眠れなくなった。身体が反応している。赴任後、人にまつわる施策がどんどん押し寄せる。社員を覚えられない。表面的にはうまく行っているようで中はボロボロ。あっという間に体調がダメになる。記憶障害まで出た。議事メモが書けない、同じ質問を繰り返してしまう。内部監査の資料作成を指示した部下を信じられず、焦燥してしまう。手帳をなくした。薬にすがった。毎日焦燥と記憶障害、1日のルーチンが果たせない。新たな施策はすべて負担に。ついに耐えきれず、直訴。それが11月。終わった。

出向後、有休を掻き集め1か月休んだ。惨めだった。出向先の方はみな優しい。みな敗者だった。何もしなくてもいい環境、時間だけが虚しく流れる。評価もなくなった。

今考えれば、ずっと鬱状態だったのだろう。研究所で復活し始めた。後輩に抜かれ、同期からは取り残された。うまくいかない時、解決法のわからない問題がある時、焦燥と不安が覆い尽くすのは相変わらずだ。思い通りにならないとイライラしてしまう。ここに来てADHDに気づいた。ようやく答えが出た。

50歳。まだできる自分を夢見ている。サラリーマンとしては重大な欠陥を抱えている。ある野球選手がデッドボールを与えたのを機にイップスになり、以降勝てなくなった話をテレビで見た。私のサラリーマン人生においてADHDイップスであり、今までの生き方では前に進めないことを示している。

ある学会に参加した際の講演で、鬱と躁鬱の誤診の話をしていた。治療法が全く違うそうだ。主治医に思い当たる節がを尋ねたら、あなたはADHDときっぱり言われた。衝動性から来るトラブルを防ぐこと、衝動的にならないことが大事だろう。

人望がない、人に関心が持てない、なぜこんなに生きづらいのか、わかってきた。母のアルバムの父との新婚写真の横に手書きで、これが私の不幸の始まりです、と書かれていた。妻にこのような思いをさせてはならないと思いながら、今日も生きづらさと向き合っている。