私のトラウマは何か②

先ほど①を書いて、ふと気づいた。
私にとって、それほどまでに苦痛を感じなければならない出来事だったのだろうか。私が追い詰められていった本当の原因が、実は別なところにあるような気がする。
思い当たったのが、初めてうつ病になったときのことである。私にとって、妻の存在、子供たちの存在は無ではなかった。この家族を私が支えているんだ。だから私はきちんとしなければならない、と言う気持ちと、私に任された初めての職場で、私は会社の期待に応えるんだと言う気持ちが、事態の収拾に対して空回りした結果、うつ病になった。つまり職場で起きている事態が、私の評価、すなわちこれからの人生の足を引っ張るものと捉え、私の焦りを掻き立てたのだろう。そこで、向き合う課題に対して、遊びシロというか、余裕シロを全く失った状態で、全力で擦り切れるまで取り組んでしまった。
会社というシステムの中で競争を続ける中で、人の3倍頑張れば絶対報われるんだ。大学に入る時だってそうだったじゃないか。そう言う思いと過去の成功体験が引き金となり、いつの間にか全力疾走してしまったんだろう。

そう考えると、一般職で当時がんばっていた自分も、全く同じ状況だった。だけれどもそこには後ろ盾がきちんとあった。ここで頑張れば報われるという上司に対する心の安全基地があると思っていたのである。
その考えは独りよがりだった。家族を顧みず、単なるワーカホリックに成り下がった。妻は慣れない子育てをひとりで抱え、頼りになるはずの夫は相手にならず、彼女が私より先に心の安全基地を失い、私への愛情を失っていった。これがカサンドラ症候群と言う所以だろう。
私がうつ病になった時、もはや妻を心の安全基地とすることができなかった。そのことによって、私は一気に崩れていったのである。私の40代はこうして始まり、もがき苦しみながら、ごまかしごまかし何とか生きてきたのがやっとであった。

すでに51歳と半年が過ぎた。後に残ったのは、結果的には、父親と同じ状況である。何者かに敗れ、心を病み、誰からもそっぽを向かれ、なんとか生き延びていく哀れな姿である。愛想をつかしていた当時の息子が、こんな父親にだけはなるまいと心のどこかで誓っていた息子が、30年経って父が他界した後、同じような境遇に置かれている。なんと惨めな状況だろう。

母親の謎のメッセージ、これが私の不幸の始まりでした、に込められた想いがヒシヒシと伝わってくる。母もカサンドラ症候群だったのだろう。私にヒステリックにあるべき姿をしつけようとしたのだろう。妻も子どもに対してヒステリックに起こるようになってしまった。そのヒステリックな声に対して、私が過剰なまでに拒否反応を示してしまう。その結果、私は母を心の安全基地と認められなくなってしまい、ストレス耐性の非常に低い子供になってしまったのかもしれない。そのことが、大人になってこのような形で現れてきたこと、結果的に、両親に対して気持ちで反抗してきた結果が、呪いのように両親と同じような家庭環境を再現してしまった。

これからどうなってしまうのか。何をやってもダメなのか。絶望感しか残されてないような気がしてきた。